867年、カロリング朝の4つの王国
867年開始のシナリオでは、まだカロリング朝の王国によってヨーロッパが4つに分割されている。
カロリング朝って何?っていう人のために簡単に説明すると、イスラム世界からヨーロッパを守ったカール・マルテルの息子ピピン三世が建てた王朝のこと。そもそも、フランク族がヨーロッパを統一していたので、カロリング朝ももともとは広大な領地を持っていた。
で、この広大な王朝で皇帝に就任したのがピピンの息子シャルルマーニュ(カール大帝)。このへんは中学校で習う歴史にも出てくると思う。
wikiから家系図をもってきた。ここまでの流れを確認してほしい。
「帝国の領土をフランク族の伝統にしたがって3人の息子に分け与えることとし、長男のロタールにはイタリアを含む広範な領土の、次男のピピンにはアクィタニアの、三男のルートヴィヒにはバイエルンの統治を委ねることとして、ロタールを共同皇帝とし、下の2人を副帝として皇帝の統制に従うことを定めた」wikiより
この決定のせいで、彼の子供の兄弟は父親が生きているうちから争うようになった。結果、長男のロタールはイタリア王となり、次男のピピン一世は死亡、三男のルートヴィヒ二世(Ludwig II)は東フランク王となった。ゲーム開始時点では長男ロタールは死んでいてその息子のうち、ロドヴィコ二世(Louis II)がイタリア王、ロタール二世(Lothaire II)がロタリンギア王となっている。そしてこの決定のときまだ生まれていたなかった四男シャルル二世(Charles II)が、死んだ次男ピピン一世の子供の領地であった西フランクを継いでいる。
こいつだ。
888年のヨーロッパの地図。WIKIにあったように、ロタリンギアがなくなって、帝国は5つに分割されている。
家系図で赤丸で囲んであるのが、ゲーム開始時点での、カロリング朝のそれぞれの王国の王である。
ロタール一世の三男シャルルプロヴァンス王はゲーム開始時すでに死んでいる。その領地はロドヴィコ二世とロタール二世により分割されている。
フランク族は分割相続なので、このままほっとくと、どんどんとそれぞれの王国がさらに分割されていく。実際にゲームをすすめると、たとえば西フランクは北の西フランク王国とアキテーヌ王国に分割される。ほかも同様だ。
さて、1066年開始のシナリオではカロリング朝はどの王国でも断絶しており、どの国でも新しい王朝が開かれている。
たとえばフランスではロベール家がカペー朝を開いているが、その始祖が867年時点ですでにいる。ウード伯だ。
さて、じつはこのウードは、888年から898年にかけてフランス王になっている。どういうことかと言うと、867年時点での西フランク王シャルル二世の子どもルイとカールマン(ふたりともゲーム開始時ですでに存在する)が若くしてともに狩猟時に死んだので、ゲーム開始時の東フランク王ルートヴィヒ二世の息子カール三世が西フランク王を兼務することとなった。このカール三世はイタリア王にもなったので、このときフランク王国を統一している。ところがこのカール三世は無能であり、反乱が起きる。
「これによって、カール3世はますます弱腰で無能であるとみなされるようになり、887年11月には甥のアルヌルフがドイツを拠点に反乱を起こすに至った。しかしカール3世はナイディンゲンに逃れただけで何の策も打てず、トリブールの帝国議会において退位し、2ヵ月後の888年1月13日に死去した。 彼の歿後、アルヌルフが東フランクとロタリンギアを、ヴァイキングとの戦いに功があったパリ伯ウードが西フランクを、ルートヴィヒ1世の孫のフリウリ公ベレンガリオ1世がイタリアを、ルドルフ1世が上ブルグントを、ルイ3世(盲目王)がプロヴァンスをそれぞれ継承した。そしてこれより後、フランク王国がみたび統一されることはなかった。」wikiより。
のちのカール三世となるプリンスカール。ゲーム的にはそこまで無能ではないようだ。
とにかく、こういうわけで、カロリング朝が混乱したときに西フランクではロベール家のウードが王になったわけだ。
上ブルグント王になるルドルフ一世もいる。
のちにイタリア王になるフリウリ公ベレンガリオ一世もいる。
これだ。どっちも西フランク王の親戚だ。このへんの人物でゲームを始めてみるのも面白いかもしれない。ちなみにプロヴァンス王ルイ三世盲目王はまだ生まれていない。
この時代、国というよりかは領地であって、その領地も家と個人に結びついている。のだが、現代の国家であるイタリア、フランス、ドイツの輪郭がこのときにもうできている。
さて、この5つの国がその後どうなったかについても簡単に見ておこう。
まず、プロヴァンスは933年に上ブルグンド王国に編入され、そのブルグンドは1032年に王朝が断絶して神聖ローマ帝国に編入された。
西フランクではカロリング家が王朝に返り咲くが、987年に断絶、選挙でロベール家のユーグ・カペーが王に選ばれる。
東フランクでは919年に選挙によってザクセン人であるハインリヒ一世が王に選ばれる。その息子がオットー一世である。
イタリア王のベレンガリオ一世息子ベレンガリオ二世はオットー一世によって廃位され追放された。
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